敗者復活の成功社長列伝


HOME > 敗者復活の成功社長列伝 > ダブルデジット社長の浜田義史さん(前編)

敗者復活の成功社長列伝

ダブルデジット社長の浜田義史さん(前編)

見返してやるという対抗心から小資本で会社をつくり、
多額の融資を受けて墓穴を掘った

96年、アスキーのお家騒動が新聞紙上を賑わした。浜田義史さんは当時常務として、お家騒動の渦中にいた。最後には役員会の決議で、他の役員たちとともにアスキーを追われてしまう。追われたあと、浜田さんはアスキーを見返してやろうと、あえて小資本で会社を設立。株式を公開したときの倍率や公開までに要する時間で、アスキーの記録をことごとく塗り替えようともくろんだ。ところがこれが裏目に出て、銀行のBIS規制のあおりを受け、あえなく破産した。

浜田義史(はまだ・よしふみ)
11947年5月東京都生まれ。獨協大学法学部中退。72年、アスターインターナショナル入社。82年、同社を退社し、アスキーの子会社アスキーコンシューマープロダクツ(現アスキー)に入社。89年、アスキーの常務取締役に就任。96年、同社を退社し、アイキューブネットを設立。99年1月、同社破産申請。99年11月、ダブルデジットを設立。

押しかけ女房のように子会社に入社した

「東京都出身、高砂部屋」

プロフィールを確認するため出身地をたずねたら、こんな冗談を飛ばした。身長190センチ。IT業界で2番目の大男だという。その体躯で全共闘運動に参加していた。大学時代には、留置場に入れられたこともある。

72年、長兄が経営していたリースバック商品を販売するアスターインターナショナルに、アルバイトとして入社する。リースが終了した機械を回収して売る会社で、東京・秋葉原にあった。この会社の店では、コンピュータの本体や端末機も販売していたので、後にIT業界を担うことになる人材がたくさん出入りしていた。アルバイトとして入社した古川享氏は、アスキーに移り、マイクロソフト日本法人の初代社長になり米国本社の副社長まで務め05年6月に退任した。西和彦氏はアスキーの副社長、社長になった。塚本慶一郎氏はアスキーの副社長を経験し、現在はインプレスの社長である。これらの面々が維新の志士のように集う店だった。

パソコンが登場し始めた82年、浜田さんは長兄に「パソコンの大型専門店をやろう」と提案した。しかし、兄は「パソコンなんてマニアのものだ」とこの提案を拒否。そんなとき、アメリカから帰ってきた西和彦氏が店にやってきた。アスキー出版(当時)の副社長だ。西氏は鞄から絵コンテを取り出して見せた。「銀座のビルを1棟借りてパソコンの専門店をやろう」

浜田さんが考えていたのと同じ構想ではないか。「この構想の責任者になって人も集めて欲しい」と西氏。およそ1カ月後、人も集まり準備も出来たところへ西氏から電話がかかってきた。「役員会で郡司さん(郡司明郎氏)や塚本さんに、出版社がパソコンショップをやるなんておかしいと反対されて、あの話、なしになったんだ」

「なんだって? 役員会を通っていない話を持ちかけて、人集めまでさせていたのか」

怒った浜田さんは、京都セラミック(現京セラ)社長の稲盛和夫氏に面会に行った。稲盛氏は、盛和塾という若手経営者を育てる経営塾の塾長を務めていた。西氏が盛和塾に参加していたので、稲盛氏に頼んでお灸を据えてもらおうと思ったのである。とはいえ、浜田さんは稲盛氏とは面識がなくアポイントも取っていない。何度も断られ、最後はつまみ出されそうになりながら、浜田さんはついに稲盛氏をつかまえて、洗いざらい話した。帰京するとその夜、西氏から電話があった。

「稲盛さんのところに行ったでしょ。行かないでほしいんだよね」と西氏。

「どこに行こうと、勝手だろ。あなたの会社の社員でもないのに」

「集めた人たちはみんなアスキーで引き受けるから、浜田さんも来てほしい。あなたがいないと、みんなかわいそうでしょ」

パソコンショップはご破算になったが、集めた人たちには迷惑をかけずに済んだ。

こんないきさつで浜田さんは、アスキー出版の子会社でビジネスソフトやゲームソフトの開発をしていたアスキーコンシューマープロダクツ(ACP)に入社する。押しかけ女房のようなものだ。この数カ月前、アスキー出版にはアスターでアルバイトをしていた古川享氏も入社していた。

会社の屋台骨を支えたのに、お家騒動に巻き込まれて解任

入社後も白い目で見られていた浜田さんは、3カ月間、虎視眈々と業績を伸ばす戦略を練っていた。そして郡司氏、塚本氏、西氏の3人を呼び、宣言した。「ACPの月商はいま、1000万円。これを来月から倍々ゲームで伸ばして見せる」

翌月から月商は、2000万円、4000万円、8000万円、1億6000万円と、宣言した通りに伸びた。本体のアスキー出版の月商は1億2000万円程度だったから、本体の売上を抜いてしまった。魔法を使ったわけではない。入社後、浜田さんが全国の地方自治体や商工会議所に問い合わせて調べたところ、パソコンショップをやりたいという希望を持つ会社のデータが800件も集まった。浜田さんは、書籍、パソコン本体や周辺機器、ソフトなどを価格帯別にそろえたオープンセット(開業用のセット)をつくり、これらの顧客に売りまくったのである。

ACPの売上が本体のアスキー出版を追い抜くまでになったので、この両社は合併し株式会社アスキーが誕生した。浜田さんはアスキーの営業部長になる。ここでも浜田さんは、オープンセットの売上を伸ばしたのと同じようなやり方で出版物の売上をも伸ばし、アスキーは年商百数十億円の企業にのし上がった。

アスキーは当時、マイクロソフト社の極東総代理店だった。86年、マイクロソフト社は米国でのNASDAQ上場にあたり、アスキーの子会社化を持ちかける。これを西氏が拒否したので、マイクロソフト社は独自に日本法人をつくることとなり、アスキーとの提携を解消した。このとき、古川氏は日本法人の社長になりアスキーを去っていく。

アスキーの売上はこのとき、250億円程度で、そのうちマイクロソフトとの提携による部門年間売上高は約80億円を占めていた。この売上が消えるのでは痛い。そこで浜田さんが中心になり、ファミコン用のインテリジェント型ジョイスティック(コントローラー)の事業を立ち上げたところ、消失分を上回る年間90億円の売上を3年間、計270億円以上獲得できた。この結果、アスキーは89年に店頭公開。浜田さんは、業績を評価され常務に就任した。

その後、アスキーは急成長を遂げた。しかし同時に、87年に社長になった西氏の暴走が始まる。半導体、映画、通信事業と多角化を目指し、ジェット機にまで手を出そうとする。91年には、西社長のワンマン拡大路線を批判し、郡司会長、塚本副社長がアスキーを同時に去ることとなる。

96年、西社長は新聞紙上で「スクウェアのオーナー宮本雅史氏がアスキーの出版部門の大量引抜を狙っている」と発表し、分裂騒動が発生する。こうした事態に危機感を持った浜田さんは、間に割って入った。「このままでは人材が大量に引き抜かれてしまう。そうなるくらいなら、相手にエンターテインメント部門の売却を逆に持ちかけてはどうか」と西社長に進言すると、西氏もこれを受け入れた。ところが価格が折り合わず、宮本氏はこれを拒否。

こんなお家騒動の過程で、西氏は疑心暗鬼になった。「独裁者の末期症状と同じです。私が、西の経営方針に対する反対派(脱藩組)の幹部たちを説得するために接触していたので、それが寝返りと映ったのでしょうね」

96年夏には役員会で解任動議が提出され、8人の取締役が解任された。浜田さんも、このときの一人であった。

こうなったら、記録をみんな塗り替えてやる

解任後、浜田さんはなにか仕事をしなければならないと考えた。「アスキーと同じ分野の仕事をするのは、潔しとしない」とも思った。しかし、知っている世界の仕事をするほかはない。ふと、アスキー時代にインターネットを使ってファックスを送るという事業の話を持ちかけられていたことを思い出し、すぐにその人に電話をかけた。

「あの話はまだ生きているかと聞いたら、生きているという。どうせやるなら、法人向けにして、ネットワークセンターを経由して海外ともファックスのやり取りができる事業にしたいと相談したら、それも可能だという」

この頃、米国に国際ファックスを送信すると、1分間で210円の費用がかかった。ネットを使ってファックスを送ると1分50円で済む。これなら、商社などには需要が大きいと見た。

浜田さんは、さっそく1000万円の自己資金で会社を立ち上げた。アイキューブネット社である。ファックスサービスの仕事は、高度な技術レベルが要求される。調べるとイスラエルにいい技術があると分かり、出向いてIPフォンの技術を買ってきた。

経済紙誌の記者たちにこの事業を説明すると、みんな興味を示してくれた。逆に浜田さんが問題点を聞くと、ある記者がこう言った。

「うさん臭いことですかね」

確かに、うさん臭さはある。どうすればこの臭さを解消できるかと考えた浜田さんは、京セラの稲盛会長に会いにいった。説明を聞いた稲盛会長は「素晴らしいビジネスだが成功させるにはいったい、いくらかかるんだ?」と聞く。「1年で立ち上げるなら15億円程度です」と浜田さん。

「じゃあ、15億円、出そう」

この稲盛会長の即答には一瞬驚いた。しかし、浜田さんは息を整え「いいえ、お金は出していただかなくて結構です。お金が目的ではなく、発起人になっていただき、うさん臭さを消す消臭剤役をお願いしたいのです」

「なに? 消臭剤やて?」

ちょっと気まずい空気が漂ったものの、稲盛会長は発起人になることを了承してくれた。

説明会を開催すると、2週間で21億円もの資金が集まった。ベンチャーキャピタルや銀行などの金融機関が、みんな資本金として出資することになったのだ。しかし資本金は4億3000万円に抑え、あとは敢えて借入扱いにした。というのは、公開したときの元値からの倍率を高くしようともくろんだからだった。この倍率も、公開までの時間も、アスキーの記録をすべて塗り替えてやろうと考えてのことである。

事業を開始すると、技術開発に時間がかかった。イスラエルから買ってきた技術でも1000分の3の割合でエラーが起きるため、さらなる技術開発に1年を要した。開発費も計画よりも超過した。

しかし、97年秋口からサービスを開始すると、売上は加速度的に増え、98年春には単月での黒字が見えるようになる。契約件数は約3000事業所、月商は約3000万円にまでなっていた。「通信やコピーサービスの事業は、保険と同じように、一度契約すると毎月使ってもらえる事業ですから、あるところまで行くと売上が雪だるま式に増えるビジネス構造で、事実、そうなりかけていた」

ようやく苦労が報われると考えていた矢先の98年5月、突然ある都市銀行が会社の取引口座を凍結した。慌てて他の銀行に走ると、他行も同じ対応をする。金融機関の貸し渋りが話題に上っていた頃のことである。BIS規制が強化され、金融機関は自己資本比率を高めなければならなくなった。自己資本を高めるには、融資している金額を減らさざるをえない。

「でも、いわゆる貸し渋りだったら、会社は倒れなかったでしょう。いきなり口座をフリーズされたんですから、足を払われたようなもので、本来は違法。このとき、会社には12億以上の預金があった。銀行としては自分の財務状態の補正に必死で、貸付先の事情などはおかまいなしだったのでしょう」

お金は会社の血液である。口座を凍結されたら血液が流れなくなるのだから、いきなり死を宣告されたも同然だ。浜田さんは焦って、知り合いの社長たちに資金を工面してくれるようにお願いをしたが、急にはうまくいかない。

「忘れもしない98年の6月20日。通信回線の使用料を払えなくなり、回線が止められてしまいました」

商売道具が使えなくなった。万事休すである。

オリジナル小冊子 経営危機を乗り越える7つの鉄則

30億701万5千円の負債から復活までの体験で学んだ、経営危機を乗り越えるために必須の条件を7つにまとめました。キーワードは「誠意」!

オリジナル小冊子 経営危機を乗り越える7つの鉄則

今すぐ、答えがほしい方必見!

漫画版
「スマイルダルマ洲山」

スマイルダルマ洲山

事業再生(事業再編)成功事例
洲山誕生秘話


大阪本部

大阪本部・地図

印刷用地図を表示

JR大阪駅中央北口から徒歩3分
阪急梅田駅から徒歩2分

〒530-0012
大阪市北区芝田2丁目4番4号
日生ビル新館4F
TEL06-6372-1313
FAX06-6372-2777
受付:平日9~19時


東京オフィス

東京オフィス・地図

印刷用地図を表示

JR東京駅八重洲北口から徒歩1分

〒103-0028
東京都中央区八重洲1丁目6番16号
東進ビル5F
TEL03-5204-1313
FAX03-5204-1314
受付:平日9~19時