SOHOの草分けと呼ばれ、
数億円の投資話が舞い込んできたら空恐ろしくなった
SOHO(Small Office Home Officeの略)と呼ばれる自宅で仕事をするスタイルが定着し、女性の起業家も増えている。笠松ゆみさんは、10年ほど前に在宅ワーカーとして注目を集め、SOHOの草分けと呼ばれた。その後、在宅のワーカーたちを組織して会社を設立し、さらに事業を成長させようと目論んでいた。
笠松ゆみ(かさまつ・ゆみ)
1962年1月、福井県敦賀市生まれ。敦賀高校卒。コンピュータのデータ入力の在宅ワーカーになり、SOHOの草分けと呼ばれる。1996年、有限会社アサップを設立。97年、有限会社キャリストセンターに、98年、株式会社キャリストに変更。2001年、倒産。SOHOWORKネット代表を経て作家に。著書に『パソコン在宅ワーク術最新版』(白夜書房)、『それでも私はあきらめない』(ポプラ社)、『分散恋愛』(宙出版)などがある。
うつ症状から逃れようとして、在宅ワーカーになりパソコン通信を始めた
笠松さんは福井県の高校を卒業後、劇団民藝に入団。3年間、チャンスを得られなかったため退団して、コンピュータのキーパンチャーになり、昼の仕事が終わってからも深夜まで別の入力会社で仕事をした。派遣会社が定着してきた頃だったから、どんな機種でも使いこなせる笠松さんは引っ張りだこになる。
結婚にも憧れ、アルバイト先で知り合ったエリートサラリーマンと結婚した。23歳のときである。ところが、福岡に住む姑が変わった人だった。2DKのマンションで新婚生活を始めると、その姑から電話がかかってくる。「結婚式の写真代を誰が払うのか」と怒っている。これを皮切りに、なにかにつけて電話でいちゃもんをつけてくるようになった。果ては「東京に行って包丁で刺してやる」「このアバズレのパンパンが」と、エスカレートする一方だ。妊娠した笠松さんが耐えかねて夫に訴えると、夫は実家に「二度と電話をかけないでくれ」と言ってくれた。すると今度は、毎日のように無言電話が……。
その後、笠松さんは男児を年子で出産し、一家は社宅で暮らし始める。89年の夏には、千葉県佐倉市に4LDKの一戸建てを購入した。同時に笠松さんは、仕事を再開し、派遣会社に登録をして結婚前に経験のあるキーパンチャーや、保険会社の外交員の仕事をする。
ところが、7年も前の姑の罵声が毎晩頭に渦巻いてきて、眠れなくなってしまった。心に受けた傷は、思った以上に深かった。笠松さんは当時を振り返ってこう語る。
「仕事先で人と話をしていると、涙があふれてきます。病院の神経科を受診したらうつ病だと診断され、福井県の両親に子供たちを預けて、半年間、入院せざるをえませんでした。入院すると、その無気力な自分が嫌になりました」
そこで退院後、正社員の求人に応募した。ところが「子供がいるから残業はできないと言うと、どこも採用してくれない。だったら、自分で自分を雇おうかと思ったのが、在宅で仕事を始めたきっかけです」
新聞の折込みチラシで入力者を募集しているのを見つけて面接に行くと、ワープロ入力の仕事がもらえた。単価は1文字0.3円で、打っても打っても月に4万円にしかならなかったが、仕事ができるという喜びを味わえた。
そんなとき、表紙に「内職特集」と書かれている主婦向けの雑誌を買うと、パソコン通信を使って月に20万円を稼いでいるという体験談が載っていた。さっそく中古のパソコンを買ってパソコン通信を始め、掲示板に仕事を求めているという書き込みをすると、いくつかの会社から入力や原稿執筆の仕事が舞い込んできた。
単なる入力と原稿の執筆では、仕事の性格がまったく異なる。笠松さんがあるパソコン雑誌のライター募集を見つけて問い合わせると「作品を送ってください」と言われた。笠松さんが友人に読んでもらっていた出産体験記を送ると、その体験記が評価されて、執筆の仕事をやらせてもらえるようになる。パソコン通信を始めてから4カ月目には、月に30万円以上の収入が得られるようになっていた。
夫と別居し会社をつくり、離婚後、都内に事務所を開く
在宅ワーカーの仕事が軌道に乗ってきた頃、名古屋で中古車情報誌を発行している出版社からこんな依頼があった。「東京に進出することになったので、ぜひ仕事をお願いしたい。入力グループをつくり、あなたがリーダーになって取りまとめをしてくれませんか」
この仕事をパソコン通信で知り合った仲間たちに相談すると、全国各地の仲間たちから参加するという声があがった。
「多くの人たちがパソコンを使ってビジネスができないかと考えていた時代でした。誰もが思いつくことだからそんな仕事は実際には無理だとか、絶対に失敗すると意見されましたね。そう言われれば言われるほど、私ならできると信じてがんばりました」
保険会社で営業の仕事をした経験があるので、営業ならばできる自信があった。一部上場企業に乗り込んでいくと、面白いように仕事が取れた。8人の入力グループで、半年後には月商100万~150万円を売り上げられるようになる。笠松さんは「きっと仕事に没頭することで、不足していた脳内の物質が製造されていたのでしょう」と考えている。
そんな活躍ぶりを紹介しようと、1年前に笠松さんが見た同じ主婦向けの雑誌から、取材依頼がきた。「在宅ワーカー成功物語」という記事で、笠松さんが大きく取り上げられた。これがきっかけになり、笠松さんは「SOHOの草分け」と呼ばれるようになる。地元のケーブルテレビも取材にきた。
一方、仕事と反比例するかのように、家庭内では夫との関係がギクシャクしてきた。パソコンにばかり向かっている笠松さんに夫の不満が募る。「家事をちゃんとやれよ!」
笠松さんは、仕事に集中することで姑に対する憎悪の感情を紛らわせてきたが、その感情は夫のほうにも向き始めた。寝室からベッドを仕事部屋に移して、家庭内別居の状態になる。夫は夫で、無断外泊をするようになった。弁護士にも相談し、笠松さんは夫に切り出した。「子供を連れて出ます。調停で離婚したいと思っています」「じゃあ、出て行けよ。すぐに戻ってくるに決まっている」
笠松さんは小学校3、4年生の息子たちを連れて、神奈川県相模原市のマンションに転居することに決めた。
新居に慣れた頃、今度はクライアントのひとつが法人化してほしいと依頼してきた。それを受けて笠松さんは、有限会社アサップをつくる。
97年の春には、若手起業家の支援を生きがいにしている経営者が、都内の水道橋に事務所を出さないかと打診してきた。以前この社長が経営しているパソコンスクールで、在宅ワークの講座を開くために教室を借りたのが知り合ったきっかけだった。今度、彼が支援している女性ばかりの会社が水道橋に事務所を出すことになり、そのスペースの半分を貸すという。笠松さんはこの提案を受け、97年6月6日、水道橋に事務所を構えることができた。また同じ日、離婚調停も合意が成立した。
男の事業計画を鵜呑みにして、資金を集める
98年、今度は間借りの事務所を出て、秋葉原の駅前に自前の事務所を持つことができた。水道橋に事務所を出すときに支援してくれた社長も投資してくれて、会社は資本金1000万円の株式会社になった。業務を入力代行業1本に絞ったところ大口の仕事が舞い込むようになり、常勤のスタッフは6人になる。登録されている在宅ワーカーは500人。年商1億円弱まで成長した。
笠松さん個人も本や雑誌の連載を書き、講演活動に奔走した。雑誌や新聞の取材も毎日のように舞い込む。テレビも地上波の全局に出演した。公的な機関やシンクタンクからも呼ばれ、ついには当時の郵政大臣、野田聖子氏との懇談会にも出席した。
翌99年には、ネットバブルの時代に突入する。笠松さんの会社にも連日ベンチャーキャピタルが訪問してきた。ある大手家電メーカーは笠松さんにこんな申し出をしてきた。「うちが出資するから社員の働き先をつくってもらえないだろうか。仕事がない社員がたくさんいるので、彼らに仕事をつくりたい」
この会社以外にも、傘下に入らないかとか、あなたを役員として迎えたいといった話が持ちかけられる。この事態に、笠松さんは怖くなった。どうやって彼らと渡り合えばいいのか。一方では、ネットワークを活用してさらに効率のよいビジネスができないかと考えていた。笠松さんには、アイデアは浮かぶものの、ビジネスへと展開していく力がなかった。かといって、社内に頼れる人材はいない。
そんな心の隙に、ある男が入り込んできた。同業の友人に紹介された長野市に住む男とメールでやりとりをしているうちに、笠松さんが不安をぶつけてみると、翌日、事業計画書が送られてきた。それを見て、笠松さんは男を信頼してしまった。社員に「どんな人かもっと調べてからのほうがいいと思いますよ」と意見されたにもかかわらず、すぐに計画書の代金30万円を振り込んでしまう。さらに男を、ビジネスパートナーとして、迎えることにした。
男は東京にやってくると高級賃貸マンションを社宅として要求し、給料も70万円を求めた。しかも、役員としてでなければ働くつもりはないと言い張る。笠松さんはこれらの要求をことごとく呑んだ。
男が入社すると、古参社員たちとの亀裂が表面化する。社員たちは「男はうまいことを言って会社を乗っ取ろうとしています」と笠松さんに告げる。男は「バカな社員たちを切り捨てないと、これから大きくなれませんよ」と主張する。その結果、笠松さんは男の提案を受け入れて、ある女子社員にクライアントをすべて渡すという条件で独立してもらうことにした。
笠松さんと男は、男が選んだ靖国神社近くの一等地のオフィスに移った。すると数日後、男が笠松さんを池袋の印刷会社に連れていった。長野市で事業をしていた頃の印刷代が未払いなので、一時立て替えてくれという話だった。さらに「僕を副社長にしてほしい」と言う。「それなら出資して」と笠松さん。すると男は「僕は500万円出資するから、笠松さんは200万円、前に出資してくれた取締役にも200万円をお願いしよう」
男以外の人たちはこれを実行した。笠松さんの一つ上の姉も200万円を出資してくれた。ところが、言い出しっぺの男が、いつまでたってもお金を持ってこない。それどころか、男は「事務員が必要だ」と言って、長野市に住んでいる交際中の女性を東京に呼び寄せ、社宅のマンションで同棲を始めた。
さらに「大きな仕事をしていくために必要なものを揃えたいから、借りれるだけ借りてくれる?」と要求する。笠松さんは、男がつくった事業計画書を持って国民金融公庫(現国民生活金融公庫)に足を運び、「マル経融資」という制度を使って1500万円を借りた。
すると男はこのお金で、机やパソコン、FAX、コピー機など、最新の製品を買い揃えた。車に至っては、BMWの特注カラーの車体である。どこまでいいように利用されるのか。このままでは、奈落の底に突き落とされてしまう……。












