バブル崩壊の影響を受けて売上げが激減。
保険金で立て直そうと、自殺を決意した
崖っぷちまで追い込まれて、初めて気がつくことがある。高橋義信さんは窮地に追い込まれたとき、保険金を目当てに自殺を試みた。何度か失敗しているうちに、なぜか妻の声が聞きたくなって自宅に電話をかけ命拾いをした。これがきっかけになり、家族のありがたさにようやく気がついた。
高橋義信(たかはし・よしのぶ)
1943年5月、宮城県利府町生まれ。東北学院大学経済学部卒。大学卒業後、オフィスコンピュータのシステム開発に携わり、82年、脱サラをして中小企業の経営を支援するシステムコンサルタント会社、エス・ケー・エスを設立。92年、倒産。会社の清算や裁判に7年間を費やす。93年、ソフトウエア開発のエス・キューブを設立。ほかにも、洋服のリフォームとリサイクルの会社や、経営労務コンサルタントの会社、産学協同のベンチャー企業などの経営を手がける。社会保険労務士。
自殺を試みているうちに、女房の声が聞きたくなった
1992年5月11日。49歳の誕生日を、高橋さんは忘れることができない。この日、自宅には高橋さん1人しかいなかった。苦しい家計を少しでも補おうと妻は働きに出ていたし、中学3年と5歳の息子2人も学校や幼稚園にいるから不在である。高橋さんは家族に遺書を書き、自殺を図った。会社の負債総額は2億8000万円。これに対して高橋さんが加入していた経営者向けの生命保険は1億2000万円だった。
「調べたら自殺でも保険金の8割くらいは下りるとわかりました。それだけのお金が入ればなんとかなるだろうと……」
割腹自殺を図り、手首をも切ったものの、うまく死ねない。こんどは、ガス栓をひねったら、自動的にとまってしまった。「いまのガスはとまるようにできているんですね。飼っていたカナリアなどの小鳥はみんな死にましたが、私が死ぬほどのガスは出なかった」
そうしているうちに、子供たちが帰ってくる時間が迫ってきた。そこで仙台の家を出た高橋さんは、家族旅行で楽しかった思い出がある平泉に行って死のうと考えた。「平泉で木賃宿を見つけて、そこで首を吊って死のうと思いました。ところが、帯で首を吊れるようなちょうどいい梁が部屋にないんです」
翌、5月12日。今度は、亡くなった母のそばで死にたいと思った。「7人兄弟の末っ子でおふくろにかわいがられたものですから、利府町のお墓の近くにあるサルスベリの木のそばで死のうと思った」
ところが利府の駅に着くと、なぜか妻の声が聞きたくなった。
「私は女房をそんなに愛していると思っていませんでした。なのに突然、女房の声が聞きたくなったんです」
公衆電話から自宅に電話をかけると、妻がワーッと号泣して「あなた、そこにいて!」と叫ぶ。すぐに電話ボックスのところに警察官が駆けつけてきて、高橋さんは自殺を思いとどまらされた。遺書を見て、妻が捜索願を出していたのだ。
オフィスコンピュータの販売会社を起こし、店頭公開を目指した
高橋さんは大学を卒業後、コンピュータのシステムエンジニア(SE)を目指した。「そのころは、SEというと理工系出身者でしかも優秀でなければなれないと言われていた。でも新しがりやだったので、東北に初めてできた計算センターに給料はいらないから仕事をさせてくれと頼み込んでこの世界に入りました」
その後、コンピュータメーカーのソフト開発会社を数社転職して腕を磨き、82年に独立。仙台市に、総合経営システムを略したエス・ケー・エスという社名の会社を設立した。38歳のときである。資本金はサラリーマン時代に貯めた600万円。「最近は起業をする人が増えましたが、われわれの頃は少なかった」と高橋さん。
当時、大手の電器メーカーがこぞってオフィスコンピュータ(オフコン)と呼ばれるビジネス用のコンピュータを開発していたので、エス・ケー・エスはそのうちの1社と提携して東北地方全域をカバーする総代理店になった。
オフィスコンピュータは1セットが1000万円くらい。これを中小企業に買ってもらうといっても、高額商品だからいまのパソコンを売るのとはわけが違う。「始めたころは現金が入らないので、午後5時まではコンピュータの販売活動をし、夜は各地の商工会とタイアップして青年経営者講座をやったり、専門学校や自衛隊の援護教習所の講師をやったりしていました。多少でも日銭がほしかったし、宣伝効果もありましたからね。3年くらいは、毎日夜の12時まで仕事をしていました」
87年には全国で初めて、オフコンのシステムを積み込んだデモカー(実演をしてみせる車)をつくった。こんな努力が実って、会社の業績は向上した。仙台市の本社のほか、宮城県石巻市、岩手県水沢市、福島県郡山市にも営業所を開く。従業員も40数人になった。
一方で高橋さんは、あるファミコン(家庭用ゲーム機)メーカーの東北代理店(卸問屋)の雇われ社長も引き受け、そちらの会社も見なければならないので、NTTに勤務していた義兄をエス・ケー・エスの会長として迎え入れた。高橋さんは、ファミコンメーカーの東北代理店とエス・ケー・エスを併せた会社をつくって店頭公開をしようとまで考えていた。
「これならファミリーからビジネスまでをターゲットにした事業展開ができる。この戦略で会社を大きく成長させられると、夢を描いていましたね」と高橋さん。バブル経済の絶頂期であった。
バブル崩壊後の景気の悪化とメーカーの開発の遅れが倒産を招く
会社の調子がおかしくなったのは、バブル崩壊の影響が出てきた91年からだった。景気が急激に悪化し、メーカーの新製品開発が遅れたので売る商材もなく、赤字経営が続く。そこでメーカーから、会社の中枢に出向者を迎え入れることにした。再建を図るため、経理、システム、営業の各責任者はメーカーからの出向者になった。
ところがこうなると、高橋さんの経営意思が社員に伝わらなくなる。窮地を打開しようと、高橋さんはメーカーにソフトウエア開発のパッケージ化(規格化されたソフトウエアをまとめること)を提案した。ビジネス用コンピュータの現場では、今後、ソフトウエアのパッケージ化が主流になると判断したからだ。ところがこのメーカーは、パッケージ化に遅れをとっていたので、提案を聞き入れてくれない。コンピュータそのものもオフコンからパソコンに移る時代だったから、高橋さんは密かに、他のパソコンメーカーと提携する方法をも探った。
財務面では、このメーカーからの仕入代金を約束手形で支払っていた。最終的な負債総額の2億8000万円のうち、大半はメーカーへの仕入代金であった。金融機関からの借入は、2000万~3000万円にすぎない。
「一時期は金融機関から、7000万~8000万円を借りていました。ところが、経理の責任者もメーカーからの出向者になったので、金融機関にはきちんと返済をした。その分、メーカーへの未払い金が増えていきました」
この状態だと、最大の債権者はこのメーカーだから、高橋さんも義兄も自宅をすべてメーカーに担保として差し入れていた。何度か支払手形のジャンプ(決済期日を延長してもらうこと)も依頼している。
高橋さんがこのメーカーに逆らおうとしても、手形を交換に回されるのではないかと怯えていたため手も足も出ない。メーカーに金玉を握られてしまっているも同然である。
この状態のときに、会長である義兄は、ある司法書士を会社の役員として迎え入れた。公文書偽造罪で懲役刑を受けたことがある怪しい人物だった。こんな人物が幅をきかせるようになっては、おしまいである。高橋さんが生命保険の保険金をもらうほかはないと考えた背景には、こんないきさつがあった。
自殺をとめられた後、高橋さんは救急車で病院に運ばれ、その後実家で休んでから家族と話しあった。自殺未遂の前には、家族全員で一家心中をしようかとも話し合ったことがある。妻は親類縁者たちから離婚を勧められてもいた。当時妻は、長男からこう言われたという。
高橋さんは妻からこれを聞き、自己破産をして出直すしかないと腹を決めた。この1カ月で、妻の体重は10キロも減り、心身ともにボロボロになっていた。
自宅には債権者からの電話がかかってくるから、自宅にいては破産のための資料をつくれない。2人はモーテルに入って資料を作成し、5月20日、仙台地裁に破産を申請した。会社と、すべての債務保証をしていた高橋さんと妻の自己破産である。裁判所からは審訊(詳しく聞かれること)を受けて、申請からわずか3日後に破産宣告を受けた。裁判官にも窮状がよく伝わったのだろう。












