サラリーマン時代に立ち上げた事業を分社して社長になり、
任意整理せざるをえなくなった
経済産業省が後援する「ドリームゲート」という起業のためのサポートシステムがある。日本に起業文化を根付かせようと03年にスタートしたプロジェクトで、すでに会員数は30万人を超えている。ドリームゲートの発案者でチーフ・プロデューサーを務めている吉田雅紀さんは、ベンチャー・サポート・ネットワークというコンサルティング会社の社長。ドリームゲートをはじめ、さまざまな起業支援事業を手がける経営コンサルタントである。
吉田さんが起業支援を行なうことになったきっかけは、自ら起こした事業の失敗にある。会社を任意整理した体験を基に、起業支援事業に全力投球するようになった。失敗を成功に変えたその生き方を探ってみよう。
吉田雅紀(よしだ・まさき)
1954年2月兵庫県宝塚市生まれ。同志社大学大学院総合政策科学研究科博士課程前期終了。76年、大手家具・照明機器メーカーに入社。84年、新規事業「ポムアレー」をスタートさせる。90年、ポムアレー事業をメーカーから分社し、株式会社ポムアレーを設立。93年、同社代表取締役に就任。94年から店舗の閉鎖を始め、00年、株式会社ポムアレーを任意整理。99年、ベンチャー・サポート・ネットワークを設立し、同年、大阪産業創造館「あきない・えーど」の所長に就任。03年、「あきない・えーど」の所長を退任し、「ドリームゲート」チーフ・プロデューサーに就任。著書に『ベンチャー失敗の法則~失敗したやつが成功する』(国際通信社)、『君も社長になろう』(大和書房)がある。
新規事業の成功に天狗になり、ヒーロー気分に浸る
中学・高校から同志社で学んだ吉田さんは、大学卒業を前に就職活動をした。「大学時代はおしゃれと女の子にお金がかかるので、先斗町のスナックでバイトをしたりしていました。僕自身は水商売に向いていると思っていましたね。だけど当時は、いまみたいにフリーターのような生き方もなかったし、就職せなあかんのやろなと思って。一方では、サラリーマンは無理やなとも思っていましたけどね」
その就職活動は、父のコネを使うというもの。吉田さんの父は大手の建設会社に勤務し「割とえらいさんやったんで……」
ところが、どこを受けても最終面接で落ちてしまう。オイルショックの影響で大手企業が採用を抑制していた時代だ。「次々落ちるんで親父が『お前、あんな強いコネがあるのにどうして落ちるんや』とショックを受けてね。親父が落ち込むのがかわいそうなので、自分で就職先を探した」
吉田さんはインテリアが好きだった。そこで大手の家具・照明器具メーカーに応募すると、内定をもらうことができた。「ま、ええかと思って、最初に内定したところに入社したんです」
そのメーカーに入社したものの、最初の2年は学生気分が抜けず、3年目に営業に配属されてからようやく仕事が面白くなってきた。25歳から27歳まで営業をやり、全国に300人くらいいた営業マンのセールスコンテストで1位の成績を修めたこともある。
そんな実績が買われて、商品企画の部門に配属された。それも会社のメインだった学習机などの商品企画を任される。83年、全社をあげて新規事業に取り組むことになったので、当時ベビー家具の開発をしていた吉田さんは子どもの生活提案をするショップを考えて、事業部長に「ベビーショップはどうですか?」と進言した。29歳のときである。翌年、1年間をかけて、吉田さんはビジネスプランを立案する。年末、このプランは、役員会で承認された。
85年、この事業は「ポムアレー事業」と名付けられ、4月には大阪郊外の南千里の住宅街に実験店がオープンする。店舗名は「ポムアレー」。ベビー服、玩具、保育用品、ベビー家具までを扱うセレクトショップである。スタッフは3人。店長とアルバイトは求人誌で募集して採用した。
この店舗は、初年度に3600万円を、2年目に4800万円を、3年目には6500万円を売り上げて、3年で単年黒字になった。吉田さんが最初に立てたプランでは3年で黒字になるとされていたから、目標達成である。この3年間、吉田さんはほとんど休みなしで奮闘した。
88年、ポムアレー事業はフランチャイズ展開を開始する。4月には大阪の箕面(みのお)に、7月には横浜のたまプラーザにアンテナショップを開店した。吉田さんは妻に頼みこんで、箕面の店の店長になってもらった。このとき吉田さん夫妻は、高槻の家を売って箕面に土地を買いそこに店舗付き住宅を建てている。秋にはフランチャイズの1号店もオープンする。この成功で、34歳の吉田さんは「天狗」になった。
89年には『快人20面相』という本に吉田さんが紹介された。活躍している社内起業家たちをインタビューしてまとめた本である。この本が出ると講演依頼が何本も舞い込み、吉田さんはヒーローになったような気分を味わっていた。
なによりもかわいいとの思いから、赤字の事業を引き継ぎ失敗
89年の年末には本部スタッフ16人、直営店が4店舗でスタッフは14人、全部で30人のスタッフを抱えていた。90年、ポムアレー事業は親会社から分社されて、株式会社ポムアレーが設立された。吉田さんはこの会社の常務取締役に就任する。社長は親会社の役員が兼務した。
92年になると、直営店とフランチャイズを合わせて12店舗になっていた。ところが、この頃、吉田さんは悩んでいた。悩みの一つは、バブル崩壊の影響もあって既存店の売上が伸びなかったことだ。売上に店舗間の格差も出てきた。もう一つの悩みは、加盟店が計画通りに増えないことだった。儲からないからである。年間で1億円近い赤字であった。
この年の秋には、事業を立ち上げた吉田さん自身が、この事業は失敗すると確信する。吉田さんは上司に事業からの撤退を訴えた。「この事業は失敗です。プランが間違っていました。どうやっても成功にたどり着けません」
93年の年明け。親会社の役員会で、会社はポムアレー事業から撤退することを決議する。撤退計画は吉田さんがつくった。計画の骨子は、事業を縮小して直営の5店舗にし、吉田さん自身が事業を引き継ぐというものだった。本社から「引き継げ」と言われたのではない。吉田さんのほうから願い出たようなものである。
「ポムアレー事業に30代のすべてを費やしていたし、なにより事業がかわいくてやめる勇気もなかった。それに直営の5店舗ぐらいならやっていけるだろうとタカをくくった面もある。親会社から分離したときは、これで俺も中小企業の親父になるのかと思いましたね」
フランチャイズビジネスのアントレプレナーとしての道をあきらめ、中小企業の親父になる。とはいえ、中小企業の親父だって、そう簡単にやれるものではない。吉田さんが引き継いで以降、残した直営店も赤字になり94年には2店舗を、95年には1店舗を閉鎖した。この時点で吉田さんは、引き継いだことの失敗を認めざるをえなかった。5店舗を引き継いだ吉田さんは、自分の資産のほとんどを使ってしまっていた。
「引き継いだ最大の理由は『みれん』と『他に道はないとの思い』です。でも、結果的にこれは間違いでした。道はいくらでもあるし、スタッフもいまは違う道でがんばっている。事業と自分がイコールになってしまっていたんですね。実は事業は、自分の一部に過ぎない。でも、事業がなくなることは、自分のアイデンティティの喪失になってしまう。それが怖いので、『みれん』とか『他に道はない』というふうに思うようになるんです」
この話には、私自身も身につまされるものがある。私は会社に多額の借金があることを知りながら、赤字部門を売却した上で前社長から会社の経営を引き継いだ。38歳のときだった。吉田さんの話を聞いているうちに、そのころの自分の心境が思い出されてくる。私も、会社の編集制作の事業部門を、自分が先頭に立ってつくりあげてきたという自負を持っていた。だからこそ、『みれん』と『他に道はない』という思いを抱いた。逆に言えば、事業がなくなることはアイデンティティの喪失になる。
「恋は盲目、事業も盲目なんです。ですから、この事業しかないと思ったら要注意ですね。事業なんて、実はいくらでもあるんですから」と吉田さん。
初めは好調だったポムアレー事業が、なぜ失敗したのか。いま、吉田さんはこう分析している。まず、プランに大きな問題があった。吉田さんが1年間をかけてつくったビジネスプランは、何度も書き直した30ページに及ぶ大作である。このプランをつくるとき、吉田さんは誰とも議論をしたことがなかった。社内の人たちにプレゼンテーションはしたものの、何度も繰返していると次に相手がどんな質問をしてくるかが分かってくるので、答えの用意ができてしまい議論にはならない。結局は独裁論に陥ってしまう。
「ポムアレーのコンセプトは、コミュニティベビーショップでした。ショップをお母さんや子どもたちのコミュニティの場にして、個々の顧客との関係を強化するというものです。このコンセプトを、フランチャイズとして事業化しようと考えた。でも、個々の顧客とコミュニケーションを図ることと、フランチャイズという標準化を追求するビジネスは本来ミスマッチ。そんな簡単なことに気がつきませんでした」
また、成功しているように見えた時期にも、さまざまな失敗の種が潜んでいた。たとえば、3年間ほとんど休まなかったことにも「無理」があるし、ヒーロー気分になっていたことには「慢心」がある。「当時の自分のことを思い出すと、自信過剰な自分と背伸びしている自分が日代わりで現れるような気がする」
債務を処理して、会社をきれいに清算する
残った2店舗は、最初に開いた南千里の店舗と妻がやっている自宅1階の店舗だった。どちらも、スタッフの給料を払うと損益がトントンという状態。吉田さんが上前をはねて給料をもらうと赤字になる。そこで吉田さんは「俺は給料はいらないから、お前らはお前らで稼げ」と指示して、別な仕事を始めた。ポムアレー事業に対しては、無償で資金繰りだけをやることにした。
「2店舗の店長は、ポムアレーの仕事を続けたいと言っていましたから、彼らが続けたいうちは続けさせてやろうと考えていました」
しかし、99年には南千里の店長が転職を決め、99年に離婚していた元の妻も00年にポムアレーの仕事をやめることにした。そうなると会社を畳まざるをえない。吉田さんは、株式会社ポムアレーを任意整理しようと決めた。
「任意整理をするには借金を処理しなければなりません。当時、ポムアレーの借入れ先は、吉田個人、前の親会社、池田銀行、国金(国民生活金融公庫)の4件。吉田個人から借りていたのは、約4000万円。前の親会社からの借金は、会社が独立するときに5つの店舗を6000万円で買ったので、その代金の残りがまだ3500万円ありました。池田銀行からは、信用保証協会の保証付きで4000万円。国金からは700万円。合わせると1億円以上です」
まず、吉田さんは4000万円の貸付金を放棄することにした。前の親会社にも放棄してほしいとお願いすると「相手の会社が存続しているのに放棄すると、贈与をしたことになってしまい損金処理ができないから、清算をしてほしい」と言われた。保証協会には、毎月の返済額を少額にした上で、債務者を吉田個人に変更してほしいと申し入れて了承してもらった。国金からの借金も条件変更をした上で、債務者をこの前年に吉田さんがつくっていた会社に変更してくれと依頼し、了承された。
「毎月100万円を返済してくれと言われても返せないので、保証協会の保証付きの借金も国金からの借金も、月々の返済額を10万円くらいに減らしてもらいました。その返済額で返しきるのに何十年かかるかわからないけれど、ともかく生きている間は返していこうと思っていましたね」
こうして、前の親会社の要求通り、株式会社ポムアレーは清算された。
「一時は100人くらいのスタッフもいましたから、事業に期待してくれた人たちに対して期待に応えられなかったという迷惑はかけたかもしれないけれど、それ以外の迷惑はかけていません」
会社を畳むにしても、こんなきれいな畳み方はそうそうできるものではない。とはいえ、吉田さん個人はどうやって生きていくのか。












