サブテーマが、
「心して実行すべし」
一、 見栄とプライドや面子(めんつ)
恥じらいは
さっさと捨てるべし
一、 石にかじりついても
何が何でも再生するぞ! と
断固決意すべし
一、 志の旗は
高々と上げるべし
解説:会社の資金ぐりが苦しくなり、正常でなくなり、
窮境状態に立ち至った折には、平時ではなく、
有事モードにギヤチェンジをしなければなりません
いわば、戦争モード=欲しがりません勝つまでは!の精神で、
勝つことに社長以下全員が一丸となって
ベクトルを合わせて一直線と突撃すべきです。
そのためには、すべての経費をばっさり大鉈(おおなた)を振るい、
切り捨てましょう!
その際に、一番障害となるのが、見栄とプライドや面子です
中小企業の社長は、個人保証をして
且つ自宅まで担保提供している場合がほとんどですから、
大企業の社長のように、会社が破綻しても
債権者集会で謝罪して辞任するだけでは事が足りずに、
すべての私財を提供して且つ自宅も手放し
身包み剥がれて放り出されます(涙!)
だから、破綻のピンチを乗り越える智慧と知識に
ノウハウを実行するパワーが必要です。
また、志半ばで、刀折れ、矢尽きて破綻が現実になっても、
良い倒産と、悪い倒産が、あります。
再起可能な倒産が、良い倒産ですが、
再起不可能な、夜逃げせざるを得ない倒産が、悪い倒産です。
倒産が人生の終わりではありません。
「再起」「再興」「復興」「再生」を決意して、志の旗を掲げましょう!!!
その道の大先輩には、
矢野博丈(やの ひろたけ)1943年4月19日生が、いらっしゃいます。
今や大企業となった、100円ショップの 「ザ・ダイソー」
の矢野社長は、 倒産して夜逃げ後、9回の転職後に、道が開けました。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、
1967年中央大学工学部第二部(夜間)土木学科卒業。
学生結婚を機に現姓名に改姓・改名。
妻の実家のハマチ養殖業を継いだが3年で倒産、700万の借金を負い夜逃げ。
その後、セールスマン、ちり紙交換、ボウリング場勤務など、
9回の転職を重ねた後1972年、雑貨をトラックで移動販売する「矢野商店」を創業した。
移動販売とはいわゆる「バッタ屋」と呼ばれる販売手法で、
倒産した企業や資金繰りが苦しくなった企業の在庫品を格安価格で買い取り、
安値で売る商売である。
これをスーパーの店頭や催事場、公民館前の空き地などで、
商品の陳列、補充、会計までを一人で行い会場を移動しながらこれを続ける。
商品の仕入れは問屋から現金で買い付けるため格安となる。
その後均一価格での商売に弟子入り。
当時から100円など、均一価格での商売は既にあった。
矢野の場合は値段を元々100円以外も付けていたが、
忙しくてラベラ―が間に合わず、100円均一にしたという。
1970年代のオイルショックなどで仲間は次々辞めたが、
1977年のれん分けの形で「大創産業」として法人化。
まもなく大きな転機が訪れた。
この頃大創産業はダイエーに6割の商品を卸していた。
ところが、あるとき中内功オーナーが
「催事場が汚くなるから、ダイエーグループは100円均一の催事は中止する」
と言ったという。
それで矢野はどうしたら会社が潰れなくて済むか、と考えて、
ダイエーの客が流れるところに100円ショップを作った。
これが常設店舗による今日いう形態の100円ショップの始まりである。
1987年「100円SHOPダイソー」の展開に着手し、
1991年最初の直営店を高松市に出店、チェーン展開を本格化させた。
100円ショップはバブルが弾け、
長期不況に突入した1990年代後半から急速に売上げを伸ばした。
また同業他社の参入もあり業界が活性化、
店舗網が全国に広がり新しい小売業として認知された。
マスメディアで度々取り上げられたこともあって大創産業も急成長し、
2007 年3月期、国内2400店舗、海外400店舗、売上高3300億円と
100円ショップのトップ企業となった。
2000年年間優秀企業家賞を受賞。
矢野はいわゆる経済団体に参加せず、
経済誌などのインタビューもほとんど受けないため、
マスメディアにあまり登場することはない。
社名 株式会社大創産業
設立 昭和52年(1977)年12月
代表者 代表取締役社長 矢野博丈
資本金 27億円
売上高 3,300億円(2007.3)
店舗数 国内 2,400店舗
海外 400店舗
事業内容 ザ・ダイソーのチェーン展開