本号は、幕末の動乱期に破産状態の備中松山藩を再建した
雲中の飛龍と讃えられた山田方谷(やまだほうこく)翁に学ぶ
覚悟と心構え及び経営戦略です。
題して、「起死回生の逆転を成功させる経営戦略の学び方 特集号」です。
雲中の飛龍と称される山田方谷は、幕末における政治家、
陽明学者であり教育者です。
財政破綻に陥り多額の借金に苦しんでいた備中松山藩
(現在の岡山県高梁市)において、財政再建を見事成し遂げ、
大きな足跡を残した財政改革者でもあり、天下にその名を馳せた。
藩の元締役兼吟味役(藩の財務大臣)を務めたわずか7年間に
鉄製品等の特産品の育成や 新しい時代の潮流に乗った産業政策、
また、信用のなくなった旧藩札を藩民の前ですべて焼き払うという
前代未聞のパフォーマンスによる藩札刷新政策等の7大政策を断行し、
な、なんと、10万両(約600億円)の借財を
逆に10万両の蓄財にした。
あっと驚く経営手腕を発揮した、財政再建の天才です。
理財論は方谷の経済論。漢の時代の董仲舒の言葉である
「義を明らかにして利を計らず」の考え方で、改革を進めた。
つまり、綱紀を整え、政令を明らかにするのが義であるが、
その義をあきらかにせずに利である飢餓を逃れようと
事の内に立った改革では成果はあげられない。
その場しのぎの飢餓対策を進めるのではなく、
事の外に立って義と利の分別をつけていけば、
おのずと道は開け飢餓する者はいなくなることを説いた。
借金10万両(現在の600億円)をわずか7年で完済し、
逆に10万両(現在の600億円)蓄財のコツは
最初に取り組んだのが、負債整理でした。
嘉永3年(1850年)春、大阪に向かった。
これまでの備中松山藩の財政状況を説明し、
借金10万両の猶予を申し入れた。
「借金は必ず返済する。踏み倒すつもりは毛頭ござらん。
伏してお願い申す。その手立てだが、米に頼らず、
産業を興せば必ず借金は返せる。」
大阪商人は、示した再建計画(産業振興策)が緻密で、
商人たちの心を動かした。
そして、利子の免除、50年の借金棚上げを承認した。
「産業振興策」その内容は、備中にある砂鉄を使って、
当時の人口の80%を占める農家を相手にした農具の商品開発である。
備中鍬(びっちゅうぐわ)の誕生であった。
備中鍬は、3本の大きなつめを持ったホークのような鍬で、
従来の鍬に比べて、土を掘り返すのに適した便利な鍬である。
従来品に比べて作業効率がよい備中鍬の生産は、
借金を返済できる大ヒット商品となった。
方谷の政治の基本方針は、
「政で大切なことは、民を慈しみ、育てることである。
それは、大きな力となる。
厳しい節約や倹約だけでは、民は萎縮してしまう。」
農家出身ということもあり、農家の気持ちがわかった為政者であった。
また、自ら開墾を行い、農産物の特産品づくりに精を出した。
タバコ、茶、こうぞ、そうめん、菓子、高級和紙など、
その特産品に「備中」のネーミングで売り出した。
ブランド品の誕生として実った。
販売方法についても、山間の小さな藩が外国船を購入し、
江戸に物資を運び、板倉江戸屋敷で直接販売する方法を確立した。
西国の藩は、産物を大阪に卸すのが常識であった。
方谷は、商品を江戸での直接販売に目をつけた。
中間マージンを排除し、安いよい品を直接消費者に販売した。
それによって利益を上げた。
また、備中松山藩内に「撫育局」を設置し生産・流通・販売を
藩の直営とした。
商業が低く見られていたこの時代、藩そのものを会社組織に変えた。
困難なことから始める勇気(税金を減らし、公務員の給与を減らす)
農民からの取立てを減らし、商人への税を増やす一方、
武士の俸禄を減らし節約を命じた。
松山藩の藩士たちの反感を買うこともしばしばであった。
武士たちをさらに怒らせたのは、辺境の地の開墾にあたらせたことで、
たびたび命を狙われた。
また、方谷が賄賂をもらっているとのうわさが立ち、
清廉潔白を示すために、方谷は、
家計を第3者に任しガラス張りにし公開した。
改革の順番が大切
方谷の改革に学べば、まずは、
政治家と公務員が報酬を大幅カットして、
次に無駄な経費を大胆にカットし、
売れる財産は売却してから、増税の順番です。
また、同時並行して産業育成して地方と国が潤う
仕組みを構築する事です。
さて、如何でしょうか?
偉大な先人が岡山にいらっしゃいました。
50年返済を覚悟した600億円もの負債を
経営戦略にて、わずか7年間で完済したのみならず、
600億円の蓄財に成功したのですから、
合わせて1,200億円を稼いだのでして、
覚悟と経営戦略の勝利と言えましょう。