本号は、喜望大地代表の喜多洲山(しゅうざん)が、
父の日に帰省して、娘から『お父さんありがとう』
と、笑顔文字で書かれた礼状を受取り、
孫6名とお礼の品であるアイスクリームを一緒に食べながら、
亡き父や、祖父に関して想いを馳せました。
祖父の早男は、徳島県麻植郡川島町の百姓の次男坊に生まれ、
大阪の陶器卸業に丁稚奉公して、
10年勤続により、のれん分けを許されて、
大阪市港区にて、大正13年7月1日に、独立創業しました。
同郷の妻をめとり、長男として父祐三郎が大正15年に誕生し、
年の離れた妹が誕生したのが、戦時中なので、
食糧事情の悪かった大阪から疎開し、
郷里の徳島で、商売の再開をしました。
終戦後も大阪での商売再開をせずに、
徳島での事業継続の道を選んだことより、
父が母と結婚し、姉、洲山、妹と3人の子宝に恵まれ、
家族経営で陶器卸小売業を営み、
零細経営ながらも繁盛店でした。
幼いころの想い出としては、
世の中が貧しくて、3種の神器と言われた、
1950年代に流行語となった家電製品、「白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫」
の普及時代であり、特にTVは、各家庭になく、
我が家に、ご近所の方が集まり、力道山のプロレスを
エキサイトしながら、鑑賞してるシーンが目に焼き付いています。
祖父は、昭和41年に、67歳の若さで亡くなり、
父も、平成元年に、64歳の若さで亡くなり、
祖母は、57歳で、母も54歳で亡くなりましたから、
短命の家系です。
父の亡くなった年を超えて、
来年3月になると、祖父の亡くなった年を迎えて、
令和3年3月を迎えると、我が家の長寿記録を更新する事になります。
願わくば、世の中の平均寿命である80.9歳を超えて長生きし、
且つ、平均的な健康寿命と言われる72.1歳ではなく、
米寿の祝いである、88歳まで元気で現役を続けたいと誓っています。
孫6名ですが、3歳から中1までの孫全員の結婚式には、
自分の足で歩いて、参列したいとの人生目標を掲げて公言しています。
されど、かかる歴史的な背景から考察すると、
洲山は、我が家の家系では死亡適齢期とも言える年齢となっており、
健康に留意しつつ、『事業承継』と『終活』を考える今日この頃です。
そこで、事業承継の観点からは、
1.事業再生をメイン事業としつつ、
2.事業承継と
3.M&Aコンサルティングにも力を注ぎ、
4.相続知財センター「梅田」として、相続まるごと解決センターの運営を
この秋より開始して、ワンストップで相続前と相続後の事務手続きや、
任意後見制度による、財産を活用できる仕組みのサポートを実施します。
5.株式の買取を専門的に実施される「株式買取相談センター」様の
株式価値算定では、事業価値算定において、
喜望大地の知見によりサポートできる体制を構築します。
誕生日や、母の日、父の日を祝える家庭は、幸せです !(^^)!
父の日とは、Wikipediaによれば、
1909年にアメリカ・ワシントン州スポケーンの
ソノラ・スマート・ドッド(Sonora Smart Dodd)が、
男手1つで自分を育ててくれた父を讃えて、
教会の牧師にお願いして父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったことが
きっかけと言われている。
彼女が幼い頃南北戦争が勃発。
父ウィリアムが召集され、彼女を含む子供6人は母親が育てることになるが、
母親は過労が元でウィリアムの復員後まもなく亡くなった。
以来男手1つで育てられたが、
ウィリアムも子供達が皆成人した後、亡くなった。
最初の父の日の祝典は、その翌年の1910年6月19日にスポケーンで行われた。
当時すでに母の日が始まっていたため、彼女は父の日もあるべきだと考え、
「母の日のように父に感謝する日を」と牧師協会へ嘆願して始まった。
1916年、アメリカ合衆国第28代大統領ウッドロー・ウィルソンは、
スポケーンを訪れて父の日の演説を行い、
これにより父の日が認知されるようになる。
1966年、アメリカ合衆国第36代大統領リンドン・ジョンソン
は、父の日を称賛する大統領告示を発し、6月の第3日曜日を父の日に定めた。
1972年になり、アメリカでは正式に国の記念日に制定される。
母の日の花がカーネーションなのに対し、父の日の花はバラ。
ソノラ・スマート・ドッドが、
父の日に父親の墓前に白いバラを供えたからとされている。
1910年の最初の祝典の際には、YMCAの青年が、父を讃えるために、
父が健在の者は赤いバラ、亡くなった者は白いバラを身につけたと伝えられる。